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続漆記 多彩!左京型硝子コレクション

前回の「第漆記」では、古家とも関係深い「板硝子」の歴史調査と、その発展型である「型硝子(型板硝子、プレスガラス)」再利用の造作に挑んでみた。そこで新たに生じたのが、かつて至る所に使用されながら、急速に姿を消しつつある型硝子への興味であった。

消えゆく古型硝子。細やかな調査へ

型硝子とは、存知の通り、板硝子表面に金属型等で模様を付けたものである。その用途は、磨硝子(すりガラス)同様、日射や視線の遮断といった実用的なものと、絵付の壁紙同様、美観的なものがあった。戦前の昭和10年前後まではその製造難儀から、使用箇所が限られていたが、以降は国内量産体制の確立により様々な箇所で用いられることとなった。特に、戦後の成長期は、住宅様式の変化等により様々な図柄の製品が技術革新と相俟って大量に生産され、さながら百花繚乱の使用状況をみた。1961年から1975年頃まで続いたそれは、「型模様戦争」とさえ呼ばれたという。

しかし、成長期の後は更なる居住様式の変化や嗜好変化により急速に廃れ始めた。元々殆どの製品が1年程の短命生産であった上に、更なる生産打ち切りが進み、広く家々に収まっていた既存品も、建替えや改装を機に廃棄されていった。今や懐かしささえ漂うその存在は、もはや古家の中にのみ、封じられゆく観がある。日本の近現代住宅を飾り、今存命するほぼ全世代の成長を見守った古型硝子。そんな、馴染深いものたちが、その来歴等も殆ど知られず今我々の視界、そして記憶から密かに姿を消そうとしている。そこで、急遽身近に残る型硝子についての調査を思い立ったのである。

調査は、拙宅を始め、それが在る京都市左京区内の知人宅等に協力を願って実施した。なお、型硝子の製品名や製造年等は、大阪板硝子販売株式会社及び関西板硝子卸商協同組合にご提供頂いた資料(典拠は型硝子製造メーカーの製品カタログ等)と、国立科学博物館の産業技術資料等を参照した。

それでは、細やかだが多彩な左京残存型硝子の数々を見つつ、それぞれの来歴等を紹介しよう。

 

左京型硝子コレクション1: 「藤氏家」備品

先ずは我が家から始めたい。凡そ90歳という地元婦人の証言によると、我が古家の建造は昭和5年前後という。まさに国産型硝子の黎明期と軌を一にした誕生であるが、当時は紙障子や板戸、そして単なる板硝子の使用が優先していたようである。型硝子の確かな導入が確認されるのは戦後のことで、外観や室内に施された2度の改修に伴って行われたとみられる。1度目は、戦後の早い時期に正面外壁に導入された元輸入品種系のもの、2度目は高度成長期に硝子障子や棚戸用として導入されたものである。その内、後者は棚裏の書込みから、昭和41年頃になされたことが判明しており、使用されている型硝子の年代もほぼそれと合致している。

しかし、調査して気付いたが、狭小ながら我が家には実に多種の型硝子が使われている。その数、なんと10種類である。他にも、厠にアルミサッシ付きの現代物もあるので、まさに「型硝子の宝庫」と言える様相であった。


左京型硝子コレクション2: 「林家」備品

「第漆記」で紹介した、懇意の画家、林雅彦氏の自宅備品である。林家は中規模の平屋(後代の増設2階あり)で、その古式の梁組と、歴代都市計画図の分析から、我が家と同じく、昭和初期頃の建造とみられる。やはり、戦後大規模な改修を受けており、その際導入されたとみられる型硝子建具が方々に存在している。

圧巻なのが、室内間仕切りに使用されている硝子障子群で、その広さゆえ実に多種多数で構成され、あたかも「硝子御殿」の如き印象を醸している。勿論、使用されているのは全て型硝子である。使用全種の中で優勢なのが、「銀河」と「かすり」、そして「ダイヤ」であるが、先に紹介したので、割愛して他を紹介したい。



左京型硝子コレクション3: 「銀月アパート」備品

数々の雑誌撮影や映画ロケに使用され、ヴォーリズ建築の駒井邸や武田五一・東畑謙三設計の京大人文研などと共に、北白川地区の名所的存在になりつつある古アパートである。映画監督の大島渚が京大在学時に住んでいたという「伝説」でも有名。詳しいことは不明だが、その建造は北白川地区が京大関連によって開発される、大正末から昭和初期頃とみられる。駒井邸や人文研等の、周辺同期建築と同じく、洋風の外観をもち、内部には和様も採用されるといった折衷式となっている。私用・共用部の隔てなく、各所に型硝子が使われ、建造当初を保つとみられる外観と一致して多くの古種使用がみられるが、一部には戦後の交換も窺われる。


左京型硝子コレクション4: 「ルームマーケット」備品

町家・古家の改装にも携わる、ご存知ルームマーケットの在庫建具のもの。様々な方面から集められた建具が改装等の為に常時ストックされており、目にする型硝子の種も多い。ただ、当然随時出庫して入れ替わるので、数は増減する。今回は特に整理直後だったので、数は少なかったが、他と重複しないものを選んで紹介しよう。



左京型硝子コレクション5: 「平野家」備品

ルームマーケット代表、平野氏宅の備品。若年世帯による古家暮しの旗手とも言える平野氏の自宅は、その登記情報から建造年が確認出来る貴重な物件である。その築年、何と明治43年。更に、大正期の初版都市計画図にもその姿が窺えるという、まさに由緒正しき古家である。

そんな平野家ではあるが、やはり多分に洩れず、幾度かの改修を受けている。当然、板硝子も内外に導入されているが、古い家らしく、型硝子以前の品とみられる古式の磨硝子と、ダイヤ硝子が優勢である。残りは、戦後導入されたとみられる型硝子で、以下に紹介するものが全てである。



一つの「文化範疇」を成す型硝子。研究進展への期待

自家を始め、身近に残る古型硝子についての調査を以上に行ってみた。その多彩振り、奥深さには、改めて感心させられた次第である。これはもう、建具や表具に次ぐ、一つの「文化範疇」を成せると言えるのではないか。ここは、現代品・戦前輸入品等を含めて、公的機関による更なる調査と収集の実施を期待するところである。私も機会あれば、また続編を実施したいと思っている。読者諸氏も何か情報あればご提供頂ければ幸いである。勿論、今回へのご教示も歓迎したい。

末筆になったが、家内に立ち入る調査、また業務中の問合わせ等に快くご協力頂いた個人・法人の各担当諸氏に心から謝意を表したい。

モール硝子 前回の「第漆記」の造作で御馴染の、縦縞が美しい型硝子である。使用箇所は玄関欄間と旧出格子側壁上部。戦後1度目の正面部改修の際に設けられたとみられる。前回記した通り、元は欧米起源で、国産最古級の品種。日本板硝子が1932(昭和7)年12月に「モール(2ミリ厚型)」の品名で初めて量産した。同社による、この品種での2ミリ厚実現は、世界初の快挙であったという。戦後の1954(昭和29)年7月には、旭硝子が「ヒシモール(4分)」という品名で同様品を発表した。我が家のものは、どちらの品か判らないが、その普及年と、固定に使われている南洋材(ラワン)の存在から、1950年前後(昭和20年代)に導入されたものとの推測が出来る。古種故に、最近特に大判のものが珍しくなった。写真のものは拙宅の備品ながら、長辺80センチ、短辺40センチもある貴重なものである。
ダイヤ硝子(浅型) その名に相応しく、貴石を鏤(ちりば)めたかのような質感を持つ品である。使用箇所は正面小窓で、1度目の改修による導入とみられる。件の婦人によると、元は「カフェー」の備品で、前住の大工氏が窓枠共々再利用したという。モールと同じく、元は輸入種で、1935(昭和10)年に国産が始まった古種である。ただし本品はその改良品で、1952(昭和27)年9月に日本板硝子が発売した「ダイヤ(2ミリ厚)」とみられる。家具等のアンティークの世界でも知られ、その美しさ故、高い人気を誇っている。
結霜硝子 「ダイヤ」にも増す美しさを有す品である。隙ないその模様展開には凄みさえ覚える。まさに「凍れる逸品」、結霜の名に相応しい。しかし、これは型硝子ではない。板硝子に膠(にかわ)等を塗布し、その収縮作用を利用して模様を成した2次加工品で、腐食硝子の類である。「ダイヤ」同様、障子等の和様意匠によく馴染んで広く普及した品ゆえ紹介する事とした。元は輸入品起源で、日本では1921(大正10)年から1939(昭和14)年まで生産されたという。「第陸記」で登場する水屋の付属品である。
かすり 時代を感じさせる長閑な柄である。かつて方々でよく目にしたものなので、普及率が高い品のような印象がある。使用箇所は正面内引戸。旭硝子が1964(昭和39)年6月に発表した「かすり」という品である。
銀河 まさに宇宙時代の開幕、高度成長期の息吹を感じる品である。使用箇所は正面内引戸。破損補修か、「かすり」に混じって入れられている。日本板硝子が1967(昭和42)年に「銀河」という名で発表。
水輪 何とも言い難い感触を与える文様である。目にした来訪者も必ず言及する強力な存在感を醸している。ある意味時代や様式を超越した図柄とも言えよう。使用箇所は、「見世の間」(正面側和室)の通り庭側4枚引戸。旭硝子が1965(昭和40)年12月に発表した「水輪(2ミリ厚)」という品である。
折鶴 当初はブーメランの乱舞、そして非常に幾何学的印象をもった品。調べて判ったのは、セントラル硝子が1966(昭和41)年に発表した「折鶴」という製品であったこと。意外にも、優雅で有機的な意匠意図だったようである。とまれ、戦後物の中では比較的気に入っている品である。使用箇所は、「見世の間」と「中の間」を仕切る3枚引戸。
石目 その無骨さから、当初はあまり馴染めなかったが、毎日付き合うにつれ好意を持てるようになった品。何しろ、4ミリ厚の重厚感がいい。1度綺麗に磨いて更にその良さを確認してみたい。使用箇所は、「見世の間」作り付けの上棚引戸。その厚みを活かして、枠なしで単体使用されている。因みに、隣家は、玄関戸を始め、正面の全開口部にこれを採用して迫力の如きを醸している。ただし、その厚みと深い凹凸による屈折から、採光率は下がるとみられるが……。製造は日本板硝子で、名称は「石目(4ミリ厚)」。1956(昭和31)年6月の発表。
からたち 明確なパターンを有しながら、抽象的印象が強い品。曲直の線が疎らに平面を埋める様は、品名である棘ばった「からたち」を模したものか。使用箇所は、台所の作り付け水屋棚の4枚引戸。1966(昭和41)年5月、日本板硝子発表製品。
こと 「銀河」と同じく、宇宙や科学を思わせる新時代的図柄であるが、意外にもその名は「こと(古都)」であった。平地での街区点在を表した意匠というが、名称とのかかわりは、それでも読み難い。しかし、和洋を超越しながらも床しさを有する意匠自体には好感をもっている。使用箇所は客間(奥の間)庭側の引戸。破損補修の代用か、全体として「かすり」が使用されている中に1枚紛れている。1969(昭和44)年、日本板硝子発表。
梨地 現在の流通品に近い姿から、新しいものに見えるが、実は戦後物としてはかなりの古手。日本板硝子が1952(昭和27)年9月に「梨地(2ミリ厚)」の名で発表した品である。セントラル硝子にも同名品があるが、こちらは1964(昭和39)年発表。当家のものはその図柄から、前者の品と思われる。使用箇所は、正面小窓と客間庭側引戸。共に破損補修の代用として少数紛れている。
クロス硝子(チェッカーガラス) 両面に施された凹凸の格子で構成されており、その高精度さから、あたかも光学部材かの如き雰囲気を発している。そして深みある反復が美しい。まさに技術・美観共に秀でた逸品である。アンティーク世界でも人気が高いというが道理であろう。本品は林家の元よりの備品ではなく、引越し祝いに贈られた単体建具のもの。解体された近隣家屋が元の在り処だという。大判の希少品で、現在活用法を思案中らしい。日本板硝子が1960(昭和35)年4月に発表した「クロスペーン」か、旭硝子が1961(昭和36)年12月に発表した「ヒシクロス(5分幅)」の何れかとみられる。
いわも ランダムなパッチワーク意匠に凹凸を施し、あかたも鉱物の如き質感を実現した品。淡い光を受ければ、パウルクレーか、ピカソ、ブラック等のキュビズム絵画画面の趣もでる、優雅かつ先鋭的な品である。使用箇所は表玄関の引戸。日本板硝子が「いわも」の名で、1964(昭和39)年12月に発表した品である。
名称不明種 不揃いな方形の展開で構成される品。石垣の様にも見え、また入り組んだ線に着目すれば、どこかの都市の旧市街図の様にも見える。庭に増設された作業部屋と、台所との仕切り窓の一部に使用。破損補修の交換品か、またその逆である残存品かと思われる。資料に記載がない為、製造年は疎か名称等も不明な品であるが、恐らくは高度成長期頃のものとみられる。柄が細かく、また意匠主張も少ない為、現代的雰囲気を有した品といえる。
さらさ 捺染(おしぞめ)の布というより蚕の食い跡、古文書の虫食い等を想像するのは私だけであろうか。どこか突飛な様が、高度成長期という時代の工業意匠たることを強烈に感じさせる品である。使用箇所はトイレ扉の小窓。1964(昭和39)年10月に日本板硝子が「さらさ(2ミリ厚型)」の名で発表。
ダイヤ硝子&赤色硝子 今回の表題写真(最上部写真)であるアパート正面玄関上部の硝子欄間写真の拡大である。アーチ壁に仕込まれたダイヤ硝子に、色硝子が仕込まれていて、時代を感じさせながらも、好感もてる簡素な仕上りとなっている。窓や戸の一部に色硝子を用いるのは明治以来の流行で、大戦以前の建築に多くの例を見ることが出来る。よって、この欄間も建造当初からのオリジナルと思われる。
ダイヤ硝子(深型) 正面玄関戸にて貴重深型ダイヤ硝子を発見した。「深型」は輸入型板を使用したとみられる原型種で、粒の大きさと彫の深さが特徴である。戦後発表された「浅型」は、その清掃性と光透性を改善したもの。恐らく、これも建造当初からの品とみれれる。旭硝子と徳永板硝子が1935(昭和10)年に「ダイヤ」の名で国産開始したものであるが、それ以前の輸入品が使われている可能性もある。実に、長老級アパートらしい品である。
モール硝子(幅広) 縞間隔が広い種のモール硝子である。普通版に比して弛緩した印象を受けるが光透性と背面視認性が高い。恐らくは内外の伺察を許す場所用であろう。使用箇所は2階廊下の潜り戸。日本板硝子が「モール(8分幅型)」の名で1932(昭和7)年12月に発表した古種なので、建造当初の品である可能性が高い。ただし、旭硝子が1952(昭和27)年6月に出した「ヒシモール(8分4ミリ厚)」という同様品も存在。
木葉 古いタイル貼りのような抽象的意匠が、落ち着いた印象を与える品。型硝子というより、磨硝子の感触に近い。細かな線影を向きを変えつつ施し、光の具合で表情が変わるように意図されている。当時としては大変高度な技術を用いたという。使用箇所は1階の客室扉。多くの扉が同様なので、恐らく扉ごと戦後交換新調されたと思われる。旭硝子が「木葉(2ミリ厚型)」の名で1962(昭和37)年10月に発表。
モール硝子 1階旧管理人室の西玄関の戸には、全面にモール硝子が使用されていた。恐らくは建造当初の品であろう。引戸に比して開閉衝撃が大きい開き戸に、欠損なく残存しているのは珍しいと思われる。欧米起源の生い立ちに相応しい、洋風使用例である。真鍮のドアノブも懐かしく、モール戸の味わいを深めている。
ステンドグラス これも旧管理人室の備品。建造当初の品であることが確実視される明り取り用のステンドグラスである。全てではないが、型硝子が使用されているので紹介する。実は型硝子は元来ステンドグラスの部材として開発されたという説がある。右側の拡大写真中、型硝子の可能性が高いのは下部2点で、上部2点は腐食硝子の可能性も。何れも、色付で珍しい型なので、輸入品の可能性がある。下部右の、宝玉と紛うばかりの厚物が美しい。
きらら 現物は長年の汚れによりあまり精彩を感じないが、本来は「木葉」と同じく、光の具合で表情が変わるように設計されたきらびやかなものである。それもその筈、この品は大ヒットした旭硝子の「木葉」に対向して、その発売翌年日本板硝子が発表した品であった。そして、その目論見通り、見事ヒットを収める。出荷数が多いので、方々に残存している可能性が高い。現物は硝子障子(非格子型)に使用。1963(昭和38)年11月に「きらら」の名で発表。「並型」という同種が1966(昭和41)年に発表されているが、現物がどちらの物であるかは不明である。
ミストライト 精細な模様が洗練された趣を醸す品である。よく見ると、裏面に並んだ極小の円突起で構成されている。使用箇所は木製の厠開き戸上部。非常に現代的な姿を持ちながら、厠戸という意匠的保守域にも馴染む稀有な意匠である。日本板硝子が「ミストライト」の名で、1965(昭和40)年6月に発表。
ており 名の通りの、粗い布目を有した品である。他と比して細かな模様ではあるが、確りとした線表現により、面としての存在感を獲得している。どちらかと言えば、和様向けの柄であろう。使用箇所は、1階引戸窓等。日本板硝子が「ており(2ミリ厚型)」の名で1963(昭和38)年6月に発表。
ソフト 「木葉」程きらびやかではないが、これもどちらかといえば、磨硝子に近い品といえよう。その名の通り、とにかく「穏やか」な印象。使用箇所は、玄関戸上部の欄間。日本板硝子が「ソフトペーン(2ミリ厚型)」の名で、1961(昭和36)年2月に発表したが、1964(昭和39)年にセントラル硝子が発表した「ソフトラル(2ミリ厚型)」という同様品もある。現物がどちらのものであるかは不明。
みどり 簡素さ故か、また、その時代を感じさせるポピュラーな図案故か、大変印象に残る品である。それ故か、以前方々で見たとの、擬似的記憶をも生じさせる。しかし、実際、生産当時人気を博したらしいので、強ち「擬似」とも言えないようである。使用箇所は、厠引戸の上部。日本板硝子が「みどり」の名で1971(昭和46)年に発表。
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